総合生産体制をもつ大会社に発展

中古車情報によりますと、東京ガス電気工業(略称ガス電)は、明治43年資本金100万円(払込25万円)でガス器具・電気事業の設計ならびに電気器具類の製造を目的として発足したとのこと。


大正3年の笙次欧州大戦にあたって、これまでのガス器具の製造を中止し、陸軍の指令にもとづき爆弾信管の一部「活機体」200万個を製造、輸出して急激に膨張しました。


この活機体の製造が終ってから諸計器類、発動機の生産を行い、大正3年には、兵器(陸軍用機関銃)、ボイスト・計器・火薬、工作機械、飛行機(神風号製作)、発動機、紡績機(後に廃止)等の総合生産体制をもつ大会社に発展した。

軍用トラックの生産

中古車検索で色々辿ると、快進社は、その設備を使って大正8年からダット41型乗用車を14~5台製作したが、乗合自動車用に二台売れたにすぎなかったそうです。


そのため快進社は、軍用保護自動車の製造に全力を集中し、大正11年ダット41型1トン積軍用保護貨物車を、さらに大正13年にはダット四剛型トン積軍用保護自動車を製作した。


しかし、この軍用保護自動車への補助は、その手続きの煩わしさによって時間を浪費させ、設備投資のための経営の悪化を改善しなかったといわれる。


この快進社の他に岸製作所、汽車製造会社、大阪鉄工所、発動機製造、京都の奥杜電気商会、三菱神戸造船所、川崎造船所等の各企業が、保護自動車の製造に着手したが、検査がきびしく技術的な理由で失敗し、結局、東京ガス電気工業と東京石川島造船所の二社だけが、軍用トラックの生産を成功させたにすぎませんでした。

トラックの製作

東京ガス電気工業、石川島自動車の発足について(^o^)ノ


この軍用自動車補助法は、上記の快進社の他に新たに東京ガス電気工業、石川島自動車などの大株式会社を自動車とくにトラックの製作にのりださせたのです。


中古車情報で見てみますと、国産車の製造をつづけていた快進社は、補助法施行の大正7年資本金60万円で株式会社快進社に改組したそうです。


そして軍用保護トラックを製作し、その補助金を利用すれば、国産ダット乗用車41型をあわせ製作できると確信して、クラソク軸、研磨盤などの自動車専用機械20余台を輸入し近代的な工場を建設しました。

トラックとして可能な6種

軍用自動車の整備は、当時の国防的見地から絶対不可欠とされたから、まず軍用自動車の生産、それにともなう自動車工業の発展、助長という図式をとらざるをえなかったのです。


中古車情報によりますと、保護自動車とは甲乙丙三種の自動貨車、すなわちトラックと丁成己三種の応用自動車、すなわちボデーを改造すればトラックとして可能な6種をいいます。


その補助金額は順次改訂され、積載量、車輪別に区別されたが、当時の丙種(1・5トン以上)の大型6輪車では、製造補助金が2200円、購買補助金1000円、維持補助金600円となっていました。

自動車工業の発展とその性格

大正7年軍用自働車補助法(大正7年3月、法15号)が成立しました。


この法律によって、貨物の運搬を目的とする4分の3トン以上の自動車(保護自動車)の製造業者または所有者に対し、補助金として自動車一輻につき製造業者3000円、所有者500円が下付されることになった(第一~四条)。


この軍用自動車補助法の成立は、その後わたしたちの国の自動車工業の発展とその性格に大きな影響を与えた。


何となれば、ドイツ・イギリス・フランスなどにあっては、自動車工業はすでに成立していたから、民間の自動車を徴収すればよかったが、わたしたちの国では自動車工業そのものが存在していなかったからです。


中古車情報によると、軍用自動車補助法は自動車工業の存在という基礎の上になりたつものであったが、わたしたちの国では、軍用自動車の基礎というべき自動車工業の育成から出発しなければならなかったのです。


ディーゼル車への移行

中古車の検索で調べてみると産業合理化にもとつくトラックの発展は、戦時、占領下と生産しつづけた普通車、さらに小型車(昭和34年から)をディーゼル・エンジン車へと移行させはじめたそうです。


昭和27年から30年にかけて普通車ではガソリン車が主流をしめ、ディーゼル車の生産が、ガソリン車以上に伸びはじめたとはいえ、ガソリン車の生産を下まわっていた。


だが31年以降ディーゼル車の生産が急上昇し、33年には相半ばし(ガソリン車2万546台、ディーゼル車1万8870台)、34年にはガソリン車を上まわり(ガソリン車1万9436台、ディーゼル車2万7179台)、小型車に波及し、以降主流となりはじめました。


会社別にみれば、ディーゼル車メーカー、いすづ、日野とともに、後発メーカー三菱の役割が増大したためであり、小型車のディーゼル化も、いすづ、新三菱の二社が小型車の生産を開始したことによります。


このディーゼル車の移行は、バスの生産をみれば、いっそうはっきりします。

生産を激増

普通トラックの生産増加はトヨタ、日産、いすづの旧許可会社にえて戦時、戦後に創立された日野、三菱、日産(旧名民生)ディーゼルの戦後メーカーの、とくに27年以降の新規参入によった。


小型四輪トラックの生産増加も、8割以上を生産しつづけた日産、とくにトヨタの大規模な設備の近代化に加えて、没落したオータにかわってプリンスがこの分野に参入したためです。


中古車情報によれば軽四輪トラックも、新三菱、富士重工に加えて32年から二輪車メーカーの鈴木、34年から愛知機械、東急くろがね、ホープなどが生産を開始し、35年には4万1522台へとその生産を激増させたそうです。

国際競争力のいっそうの強化

中古車情報によると特需を契機とした合理化で三輪車をふくむ中小企業用のトラックに関するかぎり、戦後は終ったそうです。


そればかりではなく普通トラックでは産業活動、道路などでほぼ飽和点に達したとみなされ、輸出するため国際競争力のいっそうの強化が問題となったのです。


このようにトラック、とくに小型四輪トラックの生産が飛躍的に増大したが、会社別にみればトヨタ、日産が普通車から乗用車と共有できる小型四輪トラックないしは直接小型乗用車へその重点を移したこと、それとともに新規企業が参入したことなどのためです。


小型トラックの発展

小型乗用車工業確立にむかった合理化によって小型乗用車とエンジン、部品を共有できる小型トラックがまず発展した。


中古車情報によれば、わたしたちの国の四輪トラックの生産は、昭和27年の2万960台から35年には30万8020台に達しました。


大型、小型、軽四輪別にわければ、普通トラックが伸び悩み、小型トラックが、さらに軽四輪トラックが爆発的に伸長した。


トラックは、自動車生産の7、8割(27年78・6%、35年64.0%)をしめたから、実質的に自動車工業の合理化とは、戦時、占領下の軍用トラックから民生用小型、軽四輪トラックへ移行し、それを増産することでした。


また同じ車体を使うバスの生産台数4000~1万台を加えてもこの傾向は変らない。


生産方針

トヨタの生産方針が、単に豊田佐吉以来の企業経営における自主独立という自発的な決定にもとつくとはいいきれない。


トヨタのそれは、戦前(昭和22、14年)から関係のあったフォードとの提携条件の厳しさから生じたというべきで、上記した国産車の生産も欧米、とくにアメリカから輸入した新鋭機械によって可能となったことに注意しなければならない。


すなわち、25年6月、他のメーカーに先だってフォードとの技術提携交渉にふみきったトヨタは、100%出資の子会社設立を目的とするフォードの海外戦略と衝突したため、26~30年度で173億円の輸入機械(国産機械は同年度で363億円)をもとに国産車の開発にふみきらざるをえなかったにすぎません。


また中古車の情報によると、35年には、自由化対策として大衆車パプリカの生産にあたって、フォード4、トヨタ4、トヨタ自販4の新会社設立をはかったが、出資方法、販売ルート、部品の発注方式、フォードの経営参加などの条件でまたまた失敗した現実がありました。