改良

今日も中古車の検索に役立つ情報をと張り切っています。こんにちは。


KR200は、FMRになってから、KR200はさらに改良が続けられました。


長い間待ち望まれていたコンバーティブルのキャンパス・トップをつけたKR201・ロードスターも、デビューした。


58年には、直列2気筒(空冷)、493㏄、19.5防のエンジンをつけ、リアも2輪とした(トレッドは前輪よりせまい)「TG500」(TGは、タイガーの略)もデビューしたが、期待したほどユーザーの心をひきつけることはできませんでした。


BMW・イセッタ、ハインケル・カビーネなど、並列2シーターのライバル車の進出もさることながら、時代は、そろそろ、キャビン・スクーターから離れつつあったのです。


TG500の生産は61年で打ち切られ、KRも63年生産中止となりました。


9年間の生産台数は約5万台(うち1万台は初期のKR175)だった。

若者たちのアイドル

55年秋にはフェンドとメッサーシュミットは、このKR200をホッケンハイム・サーキットにもち込み、250㏄以下のクラスの連続記録に挑戦、24時間の連続走行で平均103㎞/hの世界記録を樹立したほか、合計22の国際新記録を樹立して、そのポテンシャルの高さを実証した。


KR200は、日産 中古車のごとく若者たちのアイドルとなり、戦争を知っている人びとは、まるで、自分がメッサーシュミット戦闘機のコクピツトにおさまっているような気持ちでこのKR200を乗り回した。


1956年に、航空機生産の禁止が解除されると、メツサーシュミット社は、再び本業にもどることとなりカビネン・ローラーの生産打ち切りを決めたので、ブリッツ・フェンドは、レーゲンスブルクに新しい会社を設立して、KR200の生産をつづけることとなりました。


以後、この車は、FMRとよばれるが、これは新会社の社名、ファールツオイク・マシーネンバウ社と、地名のレーゲンスブルクの頭文字をとったものです。

大成功

KR-75はその手軽さで、話題をよんだが、操作や、乗り心地は、モーター・サイクルそのままのスパルタンなもので、一部の人びとの使いものにしかならなかった。


その点を改良し、パワー・ユニットをひと回り大きくして、54年に売り出されたのが『KR200』というわけです。


フィヒテル・ウント・ザックス製のエンジンは、ボアを62㎜から65㎜にひろげて(ストロークは58㎜のまま)、排気量は191㏄に、出力は、10・2郎にアップした。


4速ノン・シンクロのギア・ボックスには、リバースも加えられました。


鋼製チューブのシャシーに応力外皮を張ったモノコック構造のボディで車重は230。


乗員1名の場合の最高速は90㎞/h、パセンジャーをのせた2名乗車の状態でも84㎞/hは出た。


KR200は大成功で、この年1年で11909台も売れたが、これはキャビン・スクーターの販売の新記録となりました。


こういうのも中古車の情報に役立ちますよね^^

スクーターの生産

52年に、はじめてキャビン・スクーターの生産をはじめた。


これは、元航空機技師で発明家のブリッツフェンドのアイデアによるもので、はじめは、工場の片隅みに残っていた軍用機の尾輪を利用してつくられました。


タンデム・2シーターの軽快な3輪車(前2輪、後1輪)で、フィヒテル・ウント・ザックス製の2ストローク単気筒、173㏄(9Ps)のエンジンをつけたので、『KR-75』とよばれた。


KRはドイツ語のカビネン・ローラーの略。キャビンつきスクーターという意味です。


今日は以上です。


これから私は日産 中古車を物色しようと思います。

戦争中と車

こんにちは。今日も中古車情報に役立つことを更新したいとおもいます。


1945年に第2次世界大戦が終わった時には、世界中が疲れきっていました。


戦争中はどこの国も、民間用の自動車はつくられず、人びとは、最低限の"足"を必要としていました。


飛行機メーカーとして、戦争中は、ME109戦闘機などをつくっていた西ドイツのメッサーシュミット社は、ここに目をつけたのだ。


工場の75%は、空襲で破壊され、さらに、戦後は連合国の指令で航空機の生産は禁止されたので、メッサーシュミット社にとっては苦難の日々が続いたが、1950年ごろにはやっと電気ミシンや、自動車パーツの生産をするまでに立ち直っていました。

3輪仕様の車

イギリスでも、BMWイセッタ・オブ・グレート・ブリテン社で、1957年から64年の8年間生産がつづけられたが、イギリスでは後1輪とした3輪仕様のものが主流をなしていました。


これは、コストや機構的な見地からというより、単なる税制上の優遇措置をねらったもので、(イギリスでは3輪乗用車の税率は4輪車よりもずっと低い)ユーザーにとってはありがたいことでした。


BMWイセッタは、戦後の耐乏時代が生んだ傑作といえるが30年後の今日から見ても、新鮮さは少しも失われていない。


現在、要求されているコミューター、シティ・ラナバウトとしても十分に活用できる形態と機能をもっているし、その意味でも注目される。

そして、国産の日産 中古車も個人的に注目しています。


製造中止

大正11年まがりなりにも国産のウーズレー乗用車、A9型一台を完成させた。これもいずれは中古車となります。


しかし国産の鉄綱素材が悪く精密な部品工業の発達がおくれていたため、ウーズレー社の製品にくらべ性能が劣り、製造原価も高く(アメリカ製のビュイック、ハドソンの6~7000円に対し1万数千円かかったといわれる)、販売は困難をきわめた。


そのためウーズレーのA9型乗用車の製造は中止されました。


ここに石川島造船所もまた軍用保護自動車に着目せざるをえなくなり、ウーズレーCP型1トン半積トラックの生産を行うことを決意した。

軍用自動車会社

ガス電は、いわば軍用自動車会社でした。


東京石川島造船所は、明治22年渋沢宝の出資で有限会社として出発し、明治26年株式会社に改組された造船会社だそうです。


第一次大戦で艦船から起重機その他の機械類の注文が殺到し、大正5年には100万円以上の純益をあげる好景気にめぐまれた。


その余剰金の使途に困り海上のみならず陸上輸送業-自動車部門に手を拡げることになりました。


大正7年イギリスのウーズレー自動車会社の乗用車二種、同貨物自動車一種の東洋における販売、製造権を買収し、さらにウーズレー社設計の年産50~100台程度の工場用設備をも買いそろえ、石川島造船所の分工場として自動車工場(後の石川島自動車会社)を設立しました。


日産 中古車の行われる前の時代の出来事です。

軍用車の試作

中古車情報から探っていくと、ガス電は、旧陸軍の御用会社の色彩が強く、軍用自動車補助法の施行にあたって、関係の深い大阪砲兵工廠からそれにふさわしいメーカーとして軍用車の試作をすすめられたそうです。


そのためガス電は、大正7年軍用自動車補助法の規格にあう貨物車を製作した。


この試作車が最初の軍用保護自動車です。


ここにガス電は、軍用保護自動車の生産体制を確立し、昭和3年まで一貫して軍用保護自動車、応用自動車と定義される軍用特殊車』部のバス、民需用特殊車を生産しつづけました。

総合生産体制をもつ大会社に発展

中古車情報によりますと、東京ガス電気工業(略称ガス電)は、明治43年資本金100万円(払込25万円)でガス器具・電気事業の設計ならびに電気器具類の製造を目的として発足したとのこと。


大正3年の笙次欧州大戦にあたって、これまでのガス器具の製造を中止し、陸軍の指令にもとづき爆弾信管の一部「活機体」200万個を製造、輸出して急激に膨張しました。


この活機体の製造が終ってから諸計器類、発動機の生産を行い、大正3年には、兵器(陸軍用機関銃)、ボイスト・計器・火薬、工作機械、飛行機(神風号製作)、発動機、紡績機(後に廃止)等の総合生産体制をもつ大会社に発展した。